略歴
1814年〜
1814年、フランス北部シェルブール近郊の村グリュシューに八人兄弟の二番目、長男として生まれる。
裕福ではないが格式のある旧家で、父は農業の傍ら教会の合唱団の指揮者や、彫刻もしており美術愛好家であった。
長男であったミレーはあとを継ぎ農業を続けるべきだったが、父はミレーの才能を認め画家になることを許し、祖母の勧めでシェルブールに出て画家ラングロワの画塾に入るが成績優秀なためシェルブール市から奨学金を得られパリの国立美術学校に入門する。1839年〜
1839年、授業内容やパリの風になじめず退学し、奨学金が打ち消され生活が困難となり、嫌々風俗画や裸婦を描く。
その翌年のサロンで『ルフラン氏の肖像』が入選し、やっと画家としての一歩を踏み出す。
地元シェルブールでポーリー・オノと結婚しパリへ戻り肖像画家として活動するが、1844年妻ポリーヌも若くして肺結核で先立つ。
その翌年、シェルブールで二人目の妻となるカトリーヌ・ルメールと出会うが実家が結婚に反対したため二人は駆け落ち同然でパリに出た。極貧生活は続くがカトリーヌは献身的にミレーに尽くし生活を支えた。1848年〜

この頃から農民画家としてミレーの画風が確立し始め、1848年のサロンで『箕をふるう人』が好評を得て新政府によって買い上げられ、内務大臣からも注文を受けることになる。
またこの頃、パリではコレラが流行り始め家族で郊外の村バルビゾンへ避難した。数週間でパリに戻るつもりがバルビゾン村が気に入ってしまい、この地で作品作りに没頭する。
村民の〝3割〟が画家という芸術家村。
ミレーは午前中に畑を耕し、その後に絵筆を握った。
この地で『落穂拾い』『晩鐘』『羊飼いの少女』など後世、傑作といわれる名画が生まれる。
また同時に、ミレーの評価はアメリカで高まる。1850年〜

1850年(36歳)農民を主役にした記念すべき作品『種蒔く人』が誕生する。
当時は働く農民を中心にした絵を誰も描いていなかった。
表情がぼやけているのは、特定の人を描くのではなく、大地で働くすべての人に当てはまるように描いたからと言われている。
1860年ミレー46歳の時、ベルギーの画商に25点も高額で売れる。
1867年パリ万博で『落穂拾い』『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』などを出展し、地位と名声を揺るぎないものとする。
※写真はヴァン・ゴッホが描いた作品。
(Parisロダン美術館収蔵)
ゴッホはミレーに大きな影響を受けて模写もたくさん残っている。1874年
政府から装飾画の注文を受けていたが、
家族に看取られながら病気で亡くなる。(享年60歳)
