略歴
1960年
12月22日、NYブルックリンに生まれる。
父ジェラルドは、ハイチのポルトープランス出身。
母マチルダは、ブルックリン出身で、両親がプエルトリコ人。ファッションデザインに興味のあった母の影響で、幼い頃から絵を描いたり美術館に通う。1968年
8歳の頃に車にはねられ、腕を骨折したほか、内臓も損傷し手術を受ける。入院中の暇つぶしにと、母から「グレイの解剖書」をもらう。
1977年
アート仲間であり親友でもあったアル・ディアスと一緒に、漫画のキャラクター「SAMO」を作り出す。マンハッタンのダウンタウンに自作のグラフティを手がけ、SAMOと著名し、注目を集めた。
1978年
6月、度重なる父とのいさかいが原因で家出。
コラージュや絵葉書、絵を描いたTシャツを売ってお金を稼ぐ。この頃、レストランでウォーホルがヘンリー・ゲルツァーラー(当時MOMAのキュレーター、後の文化長官)と食事をしているところに遭遇。
バスキアは絵葉書を数枚もってレストランに入り、買ってくれないかと言って2人に見せた。ゲルツァーラーは若すぎると買わなかったが、ウォーホルは1枚買ってくれた。
これがアンディ・ウォーホルとの最初の出会い。1981年〜
1981-82年 バスキアにとって最もパワー・エネルギーを作品へ落とし込んだとされる年。
1981年バスキアはキャンバスへ作品を描くようになる。
バスキアのアパート兼スタジオにて、
大音量でJassをかけながら三日三晩寝ずに作品へ没頭していた時代。
1982年に個展「ドクメンタ」へ出品し、
名声を確立。
ヨーロッパ、アメリカをはじめとした様々なギャラリーがバスキアの作品を扱いたく、
予約が殺到するも制作が追いつかず。
スターダムを急速な勢いで駆け上がっていったバスキア。
画商が気を利かせ、
憧れのウォーホルの元へバスキアを連れて行き2人を再び引き合わせる。
新たなレガシーの始まりとして。1987年
2月22日ウォーホルの突然の死去により、バスキアの孤独が深まる。
1988年
8月12日、薬物のオーバードースにより死去。享年 27 歳。追悼式には300人が参列した。
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